七階。

中央線高架のふもとで本を読む、夢を見る。

宇宙服へ変態する妻の身体。岸本佐知子編『変愛小説集』~僕らが天王星に着くころ~

文脈の通り、ここでいう「変態」は、変態性欲の略ではない。

岸本佐知子編『変愛小説集』の現代欧米作家編、日本作家編を私は吉祥寺の古本屋、バサラブックスで購入した。

明るい木目が印象的な棚が天井まで立ち並ぶ、小綺麗なお店だ。吉祥寺の公園側に行きたくなるたび私はここに寄る。井の頭公園を散歩して、ベンチでパンやドーナッツを食べ、バサラブックスの店前のお値打ち本が入った箱を覗いて……

 

さて、『変愛小説集』だが、『変愛かつ純愛』な短編小説を集めたというコンセプトの面白さに惹かれて購入した。そしたらまぁ面白いこと。目を皿のようにして読んだ。

現実と非現実が入り混じる世界観、果てしなく先の未来なのかこの世界に近しい異世界なのか、夢なのか……欧米小説編に納められた11編全ての作品を紹介したいが、気負ってしまうので気が向いたらにする。(日本作家編は未読)

その中で、『僕らが天王星に着くころ』(レイ・ヴクサヴィッチ)という小説について書きたい。

この小説はこんな一文で始まる。

――モリーに宇宙服が出はじめたのは春だった。

これだけでもう、引き込まれた。

この世界では、皮膚が宇宙服に変わっていくという病が流行している。足から徐々に銀色の宇宙服に包まれていき、身体の上のほうまで侵食し、最後、頭がヘルメットに包まれると重力を失い、宇宙へ飛び立っていく。

主人公の妻もこの病に罹る。少し遅れて、主人公もこの病に罹る。一緒に飛び立ちたいと願う主人公の願いも空しく、妻は先に宇宙へ吸い込まれていき、無線も届かない。

宇宙服が完成した人々が向かう惑星は、一定の時間枠内で異なるらしい。ある時に飛び立った者は天王星、ある時に飛び立った者は冥王星……

宇宙服が完成した主人公は宇宙空間を漂いながら、妻が向かったはずの天王星に着くことを願う。

 

あらすじを抜き出すと、つらく切ない物語のようだが、小物や会話がユーモアに溢れ、主人公は前向き。軽いテンポで話が進んでいく。

この小説を読みながら、恋人(実在するかしないかはさておき)のことを考えていた。

恋人の皮膚が宇宙服で覆われていく日々。自分の手の温度を感じてもらえる部分が減っていき、ヘルメットのガラス越しにしか目を見交わすことができない。

そんな時、私ならどうするだろう? この小説の主人公のように、無線を用意したり、とりすがって紐で縛って風船のように繋いでみたり、するのだろうか?

飛び立つまぎわ、人々は必ず一つ手近なものをひっつかんでいく。私なら、全ての気持ちを込めた何かを持たせることを思いつく。それか、早く自分の病が進むよう、できる限りのことをするかもしれない。

書いていて気が付いたのだが、歳を取ることと宇宙服に身体を侵食されていくことは似ている。

妻を見送った後、主人公は地球で周到な用意をし、天王星への旅に臨む。その装備は文学全集、懐中電灯、小型の消化器。

一刻も早く天王星に着くため、消火器を噴射して自身を加速させるラストシーンは、可笑しくもやっぱり切なくも、その明るさに胸を打たれた。

死ぬことと似ていても、完全な離別ではないのかもしれない。

おかしくなった世界、非現実的な現実を前に、ひたすら自分にできる限りの手を尽くす主人公に不思議と物悲しさはない。

ひたむきな夫の愛の『変愛』だった。

 春が来たら、私も銀色のハイヒールを履いて、井の頭公園を散歩したい。