七階。

中央線高架のふもとで本を読む、夢を見る。

恋をしたらどうしておいしいものがつくりたくなるんだろう。~平松洋子『よい香りのする皿』

私がエッセイを楽しめるようになったのは、就職が始まってしばらくしてから、もしくは会社に入って1・2年経った頃だったように思う。

それより若い頃は、エッセイが読めなかった。

本屋さんや図書館で、エッセイの棚は完全スルー。小説が好きで好きで、フィクションの世界にのめり込んでいた。ストーリーを追いかけるのが楽しくて、一旦本を読み始めると、無我夢中でストーリーを辿り、読破していった。

 

大人になったのかもしれない。

疲れた夜、エッセイを読むと癒される。筆者の日々の細々としたことを知るのが面白い。さらさらと流れていく文章の中に、時々きらりと光るものが混ざり、見つけると思わず身を起こしたくなる。

例えば、最近平松洋子さんのエッセイにはまっている。

たくさんの作品の中でも好きなのが「よい香りのする皿」。この中の「遠くなったり近くなったり」の文章がとても好きだ。

洋子さんの友人のみずえさんがぼやいている。なにかというと、夕飯用に作り置きをしていったたけのこの煮つけに、恋人が手を付けずに、代わりにコンビニ弁当の殻が捨ててあったというのだ。それが悔しくて、夜中にひとりでたけのこガリガリ食べてしまった、と。

それを聞いた洋子さんは思う。

ああ、みずえさんいいな、と思う。たけのこの煮もの放ったらかしにしてコンビニ弁当を買っちゃった相手のことがとても好きだから、だからそんなふうにくやしがったり、むっとしたり、思わず先まわりをして台所に立ったり、ていねいに気持ちのかけらを拾い集めてはしきりに思いをめぐらせることができるのだ。

 

 大学生の頃の私なら、せっかく作ったご飯を放ってコンビニ弁当を食べるなんて、そんなのひどい! 傷つく! と地団駄を踏んで憤慨して、その気持ちそのものに、とても価値があるということに気が付かなかっただろう。(大学生の頃、どころではない。この文章を読むまでは気が付かなかった。)

手料理を食べてくれなかったことがくやしい、むっとする……その気持ちがどんなにいじらしく可愛らしいか。

改めて、標題を帯に持ってきた装丁のセンス、そしてこんな言葉を紡ぎ出す平松洋子さんのすごさを思う。

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