七階。

中央線高架のふもとで本を読む、夢を見る。

セックス後にひとりで食べる、真夜中の塩バターラーメン/柚木麻子『BUTTER』

湯気を立てる真っ白なごはんの上で相好を崩し、じんわりと染み込むバター。そこにあまじょっぱいお醤油をひとさしして、舌の上に乗せた瞬間は何もかも忘れてしまうほどに幸せだ。

柚木麻子『BUTTER』のおかげで、幼い頃食べていたバター醤油ごはんに10年以上越しに再会することができた。幼い頃は、バターの上に母が好物のしらすをかけてくれた。ちちくさいバターのあまやかな香りとともに、母の愛情に包まれていたことを思い出すと、涙ぐみそうになる。

月日は流れ、大人になった私のお茶碗にしらすを入れてくれる人はいない。

その代わりと言ってはなんだが、食材はグレードアップした。

作品に登場する高級バターの存在を知り、カルピスバタークイーンズ伊勢丹で購入。それをごはんに乗せて食べたときの衝撃……

100グラム540円の幸せは、私の冷蔵庫に必携となった。

 

こってりとした美味しいものがたくさん登場する作品だが、その一方で、様々なテーマが錯綜し、非常に読みごたえがあった。

主人公の町田里佳は30代の週刊誌記者。結婚詐欺の末、男性3人を殺害したとされる梶井真奈子(カジマナ)に取材を重ねていくうちに、徐々に翻弄されていく。

カジマナは、あの木嶋佳苗をモデルにしたキャラクターだ。

彼女が「若くもない」そのうえ、「痩せてもいない」のにも関わらず、多くの男を手玉に取った事件に、男達は異常なまでの憎しみをあらわにし、里佳はこの事件の背景にある「女嫌い」の雰囲気を感じ取り、記事にしたいと考える。そしてカジマナに近づいていくうちに、自分の過去や、社会で生きる上で感じる息苦しさに向き合わざるを得なくなっていく。

 

里佳は、長身でモデル体型、男性ばかりの職場で仕事に打ち込んでいる。何かにつけて、すぐに「もっと頑張らなければ」と考えてしまう。しかし、そんなに頑張って何を得たいのかわからなくなっている。漠然と憧れている女性初のデスク(記事を執筆する役職)も、異性を脅かすものであるだろうと感じている。そんな彼女は、カジマナのスタイルに驚愕する。

――梶井は何よりもまず、自分を許している。己のスペックを無視して、自分が一人前の女であることにOKを出していたのだ。大切にされること、あがめられること、(中略)そのことが、一億円近い金を男達から貢がせていたことよりも、里佳にとっては驚嘆に値すべきことのように思われる。どんな女だって自分を許していし、大切にされることを要求して構わないはずなのに、たったそれだけのことが、本当に難しい世の中だ。(p22)

――鼻の奥がきゅっと痛くなるような、冷たい川風が、もっと努力しろ、でも絶対に世界を凌駕はしない形で、と命令しながら、頬をぴしゃぴしゃと張っていく。(p88)

 

 もっと頑張らなければ、と自分を追い込み続けるのは、里佳の親友の伶子もそうだ。

妊活のために仕事を辞め、懸命に不妊治療に通いながらも、その実夫婦生活はずっと前から消滅している。伶子の姿を、里佳は童話の女性の姿に重ねる。

――里佳には見えた。頭巾をかぶった伶子が森を歩き、小さな手や足を拾い上げ、生真面目な顔で正確につなぎ合わせている姿が。どうしても怖いとは思えなかった。悲しいことに、それはこの上なく彼女らしい光景だったのだ。(p132)

里佳も伶子も、 女子高出身で女性蔑視に敏感、努力家、容姿端麗、仕事に打ち込んできた女性だ。

対してカジマナは「女性たちは男を決して凌駕しない、女神のように包み込む存在になればいいのです」と言い放ち、同性嫌いを公言している。

しかし、里佳はカジマナと話をしているうちに、彼女が男達にお金を出させて高級料理教室に通っていた理由が、同性の友人を作るためだったことを知る。

取材に通ううち、カジマナはついに里佳に心情を吐露する。

――「(前略)誰と付き合っても、心から満足することがなかったの。美味しいものの話題や毎日の不安や楽しみについて、私は分かち合いたかった。会話を楽しみたかったの。でも、あの人たちは自分たちが知らないものについて私が話すと不機嫌になった。(中略)だから、話していても、新しい世界が少しも広がらなくて、なんだか寂しくなった。あなたと逆」(p342)

カジマナが料理教室に通い始めた頃から、男達は死に始めた。

もしかしたら、カジマナは料理教室で同性と接したことで、男達への嫌悪感を自覚したのかもしれない。男達は、カジマナのことを求めながらも蔑んでいた。あんなブス、デブ、と言い放ちながら、料理を作ってくれる優しい女、決して自分凌駕しない女を切望しのめり込んだ。

カジマナは世間に対して、率先して男性を立て料理を作る女が愛される、それが本来自然の在り方なのだと主張するが、里佳に零した本音は、全く違うものだった。

――「そう、現代の日本女性が心の底から異性に愛されるには『死体になる』のがいいのかもしれない。そういう女を望む彼らだって、とっくに死んでいるようなものなんだもの」(p304)

 

彼女は本来、自由な女性だったのだと思う。それをよく表しているエピソードがある。私がこの小説の中で一番好きなシーン、『真夜中の塩バターラーメン』だ。

取材を始めて間もないころ、里佳はカジマナにひとつ課題を言い渡される。

靖国神社のTというラーメン屋、塩バターラーメンを食べた感想を教えてちょうだい。セックスした直後に食べること。夜明けの三時から四時の間。できるだけ寒いといい。

里佳はカジマナの言いつけ通り、2月にホテルを予約して恋人の誠を誘い、ベッドを共にしたあと、こっそり部屋を抜け出す。

安らかに眠る恋人を温かい部屋に残し、 寒風が吹きすさぶ真夜中の新宿を、涙目で通り抜けた先の黄金の塩バターラーメン。バターましまし。ハリガネで。

――セックスの後にふらりと外に出て味わうラーメン。それは想像していたような官能の延長ではない。たった一人でしか得ることが不可能な、自由の味だった。(p143)

新宿の乾いた青黒い真夜中に、月のようにぽっかりと黄色いスープが浮かんでいるのが目に浮かぶ。全てから自由になれる瞬間をカジマナは愛していたのだろう。濃密に他人と交わった直後というのが、なおさら自由を際立たせるのかもしれない。

――結婚相手を探していたはずの彼女は、根本のところでは、誰にも所属するつもりはなかった。それは確かだ。でなければ、こんな時間に男を残してラーメンを食べたくなるわけがない。(p144)

 

 カジマナは、里佳と心が通ったかと思わせた途端、手のひらを返したように里佳を裏切る。しかし、カジマナも里佳も伶子も、表面上はまったく違う価値観を持っているように見えながらも、本当は「世界を凌駕しないで、努力し続けること」という同じ呪いにかかっていたのだと思う。どんなに男達を手玉に取っても、世界に服従し尽くしても、カジマナは結局呪いから逃れることができなかった。そして、誰とも心を分かち合うことができなかった。

そんなカジマナの心を慰めることができたのは、ひとりひきりで真夜中に食べる塩バターラーメンだったのではないだろうかと思う。

誰でも、夜中に部屋を抜け出して、ラーメンを食べに行くことはできる。必ず幸せになれるとわかっている場所へ向かう、現実からの小さな逃避行。

この味を里佳に教えてくれたカジマナは、里佳がそれを感じるずっと前から、里佳のことを信頼していたのかもしれない。

私も、いつか小さな冒険として、真夜中の塩バターラーメンを食べてみたい。

その時は必ず、バターましましで、ハリガネで。

いったい私は夢をみたいのか生き延びたいのか/今日マチ子『もものききかじり』

美しいもの、光るような刹那、空想が好き。

そんな自分だから、願わくばいつまでも夢を見ていたいと思う。

生活、と聞くと、所帯じみるのが嫌とか、そんな反抗的な気持ちがすぐに浮かんできてしまう。

会社勤めもあんまり好きじゃない。調子がいい時は良い(気がする)が、基本的に、毎日同じ場所に行って、同じ人達と顔を合わせるのは性に合わない。

それでも遅刻しない、挨拶をする、等の最低限のことはやっているから偉いと思う。(そんなに威張ることでもない。)

いずれ老いさらばえる身ではあるけれど、それでも心の芯の部分にはいつも結晶のような硬質なものを持っていたいと思っている。

 

先日読んだ今日マチ子『もものききかじり』がとてもよかった。 

hanatsubaki.shiseidogroup.jp

 

主人公の「もも」は26歳。週3回派遣社員として働きながら、大好きな演劇を続けている。好きだった恋人には結婚を切り出したら別れを告げられてしまった。

年代としてもちょうど同じくらい。

ももの悩みは私の悩みでもある。ももはこう悩む。

 

夢みるだけならお金はいらない

でも生きていくためにはお金がいる

いったいわたしは夢をみたいのか生き延びたいのか――

 

生きていくためにはお金がいる、という言葉は重い。

生き延びる、という言葉はもっと重い。

私も毎日寝て、起きて、本を読んで、散歩をして、美しい空想の中でずっと生きていたいと思うけれども、それは難しい。

なぜなら、生きていくためにはお金がいるからだ。

そして、生まれてしまったからには生き延びなければならないからだ。

それがどんなに理不尽だと思っても。

 

『もものききかじり』の世界は滲んだような美しい色彩が重ねられている。(今日マチ子さんのフルカラーが拝めるのは幸甚だ。)

理不尽に生き延びることが求められている世界でも、大好きなものは存在するし、ふと目を遣れば美しい色彩に満ちている。

ももの周りには、魅力的な女性が複数人登場する。

ももが所属する劇団の演出家、柿沼さん。

クールな看板女優の泉さん。

同居人の美女、栗山さん。

 

双子のシングルマザー柿沼さん。

恋愛対象が女性の泉さん。

恋人は生活必需品、栗山さん。

 

超多忙な柿沼さんが小説を書くのにハマって毎朝5時に起きてガリガリ書いていたり、

泉さんが親と喧嘩をしてももの家に転がりこんできたり、栗山さんが男と別れた日は決まって肉を焼いたり。(ももと泉さんと栗山さんの三人生活が個人的にはとても羨ましい、楽しそう。)彼女たちは生き生きとして楽しそうだ。そして、彼女たちの輪郭を彩る世界は美しい色に満ちている。

 

私も悩んだときは、ただただ世界に目を向けてみたいと思う。

そこに少しでも美しい何かを見いだせたなら、夢でも現実でもなく、ただここに存在するだけの自分が救われるような気がするのだ。

恋をしたらどうしておいしいものがつくりたくなるんだろう。~平松洋子『よい香りのする皿』

私がエッセイを楽しめるようになったのは、就職が始まってしばらくしてから、もしくは会社に入って1・2年経った頃だったように思う。

それより若い頃は、エッセイが読めなかった。

本屋さんや図書館で、エッセイの棚は完全スルー。小説が好きで好きで、フィクションの世界にのめり込んでいた。ストーリーを追いかけるのが楽しくて、一旦本を読み始めると、無我夢中でストーリーを辿り、読破していった。

 

大人になったのかもしれない。

疲れた夜、エッセイを読むと癒される。筆者の日々の細々としたことを知るのが面白い。さらさらと流れていく文章の中に、時々きらりと光るものが混ざり、見つけると思わず身を起こしたくなる。

例えば、最近平松洋子さんのエッセイにはまっている。

たくさんの作品の中でも好きなのが「よい香りのする皿」。この中の「遠くなったり近くなったり」の文章がとても好きだ。

洋子さんの友人のみずえさんがぼやいている。なにかというと、夕飯用に作り置きをしていったたけのこの煮つけに、恋人が手を付けずに、代わりにコンビニ弁当の殻が捨ててあったというのだ。それが悔しくて、夜中にひとりでたけのこガリガリ食べてしまった、と。

それを聞いた洋子さんは思う。

ああ、みずえさんいいな、と思う。たけのこの煮もの放ったらかしにしてコンビニ弁当を買っちゃった相手のことがとても好きだから、だからそんなふうにくやしがったり、むっとしたり、思わず先まわりをして台所に立ったり、ていねいに気持ちのかけらを拾い集めてはしきりに思いをめぐらせることができるのだ。

 

 大学生の頃の私なら、せっかく作ったご飯を放ってコンビニ弁当を食べるなんて、そんなのひどい! 傷つく! と地団駄を踏んで憤慨して、その気持ちそのものに、とても価値があるということに気が付かなかっただろう。(大学生の頃、どころではない。この文章を読むまでは気が付かなかった。)

手料理を食べてくれなかったことがくやしい、むっとする……その気持ちがどんなにいじらしく可愛らしいか。

改めて、標題を帯に持ってきた装丁のセンス、そしてこんな言葉を紡ぎ出す平松洋子さんのすごさを思う。

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「パン屋」と聞くと、襲撃する? と言いたくなる~村上春樹『パン屋再襲撃』を読み聞かせてもらった夜~

近所にパン屋ができそうである。

道路側の壁を取り外し、洞窟のようにぽっかりと口を開けた空きテナントに、銀色のオーブンやらなんやらが運び込まれ、次の日には壁が取り付けられ、その次の日には白い木目調に塗られておしゃれな雰囲気になった。

パン屋というのは私の憶測にすぎないが、看板が出る日が楽しみである。

 

さて、パン屋といえば息をするように「襲撃」と続けたくなる。

平和なパン屋のイメージが一気に物騒になってしまうが、これは全て村上春樹のせいである。

私は村上春樹の短編小説が好きだ。中でも、『象の消滅』短編選集が気に入っている。

https://www.amazon.co.jp/「象の消滅」-短篇選集-1980-1991-村上-春樹/dp/4103534168

 

この短編集の中に、『パン屋再襲撃』がある。

「再襲撃」 というからには 、初回の「襲撃」の作品もあるのだが、ここでは「再襲撃」について書きたい。

この小説は一言で言うと、どうしようもなく混沌とした可笑しさの裏側に、とんでもなく美しいイメージが張り付けられた小説だ。(と私は思っている。)

読むたびに笑い転げてしまうし、美しい描写に心を澄ませてしまう。

 

主人公は深夜2時、結婚したばかりの妻と2人、特殊な飢餓感に襲われる。

特殊な飢餓感とは……

 

①僕は小さなボートに乗って静かな洋上に浮かんでいる。②下を見下ろすと、水の中に海底火山の頂上が見える。③海面とその頂上のあいだにはそれほどの距離はないように見えるが、しかし正確なところはわからない。④何故なら水が透明すぎて距離感がつかめないからだ。

(本文より引用)

 

この夢のように美しい、透明な風景のイメージは、この小説の底をずっと流れ続ける。時折、主人公は心の中でボートから海底火山の頂上を見下ろす。そして水が透明すぎることで、宙に浮いているような妙な感覚を持ち続ける。

特殊な飢餓感によって、主人公は学生時代相棒と共にパン屋を襲い、未遂に終わったことを思い出す。(未遂、といっても特殊な取引でパンを手に入れることはできたのだが。)

以来、主人公は呪いのようなものに付きまとわれており、その話を聞いた妻は、それのせいで自分までもが特殊な飢餓感を感じるのだと言う。

そうして妻は、呪いを解くためにはパン屋襲撃を今すぐ完遂させることが必要だと断固主張し、2人は深夜の東京に繰り出す。

ぼんやりしている主人公を尻目に、妻は手慣れた強盗のように散弾銃を使いこなしてマクドナルドを襲撃し(深夜の東京では、パン屋のようなものがマクドナルドしか営業していなかったのだ。)、主人公は全く知らない妻の一面に戸惑いながらもすんなり受け入れ(結婚生活というのは何かしら奇妙なものだという気がしただけだった。)妻の的確な指示に従って襲撃の一端を担う。そうして2人は無事にビックマックを30個手に入れ、夜が明ける。

 

夢か幻か定かではないが、十代の頃、恋人に『パン屋再襲撃』を枕元で音読してもらったことがある。

進んでそんなことをしたがる人間がいるとは思えないので、強要したのだろう。やらされる側としてはたまったものではないだろうが、恋人は優しく読み聞かせてくれた。

私は何度も笑うだろうから、とても寝入るどころではなく、結局最後まで読ませてしまったのだろう。(細かい記憶はない。)

今では、その人の声も姿もぼんやりとしか思い出せないが、「パン屋再襲撃を恋人に読み聞かせてもらった」ということは一生忘れないだろう。

 

私の心の中にも透明な水を張った海が存在していて、ボートから海底を覗くと、様々なものが浮かんでは消えていく。

「パン」と聞いただけで、『パン屋再襲撃』、そしてそれを読み聞かせてくれた恋人の面影までもが浮かび上がってくる。可笑しさと感嘆とそして寂しさと愛おしさと……人間の心の中には、本当にたくさんのものが沈んでいる。ささやかな刺激で立った波紋で、思いもよらないものが運ばれてくることがある。

 

パン屋再襲撃』では、主人公は朝日とともにボートの底に身を横たえ、満ち潮が2人をしかるべき場所に運んでいってくれるのを待つ。

いつか、私のボートにも同乗者が現れるのだろうか。その日を楽しみに、私は1人で枕を抱えて『パン屋再襲撃』を読もうと思う。

本の置き場所問題~誰にも見せられない本~

図書館から返却催促ハガキが来てしまった。

今まで、返却催促は電話でしか受けたことがなかったから、電話の次はハガキが来るのか……と思いながら眺めた。反省はしている。

ところで、ハガキに書名が書かれていない。よく読むと、書名はプライバシー保護のため記載できません、というようなことが書いてある。

誰がどんな本を読むかというのは、プライベートな情報である。個人でも国でも、何者かが勝手にそれを知ることはできない。図書館の貸出記録は守られている。

という図書館の大前提を、小学生の頃、図書館の先生から教わった覚えがある。とんでもなく田舎の学校だったが、しっかりした教育を受けたものだ。

大人になった今ならわかる。どんな本を読むかを知れば、どんな思想を持っているのかわかる。世が世なら、特定の思想は糾弾されて、迫害される恐れがある。

平和に慣れすぎて、ありがたみを忘れがちだが。

 

さて、話は自宅に移る。記事のタイトルを「本の置き場所」としたが、同居人や定期的な訪問者がいる人にとって、本の置き場所は悩みのタネとなる場合があるのではないだろうか。

その理由はもちろん、前述したプライバシー問題である。

どんなに密な相手でも、自分の読むものを知られたくないことはあるだろう。図書館が書名を伏せたハガキを送ってきてくれても、本の現物が見られてしまったら意味を成さない。こればかりは、自分で身体を張って守り抜くしかないのである。

 

幸い、私は周囲の理解に恵まれ、読む本を堂々と人目にさらしてきた。実家にいた頃は家中に置きっぱなしにしていたし、現在は入室者全てが通る場所に本棚を置き、図書館本も含め、全ての本を格納している。

我が家に最も頻繁にやってくるのは恋人である。(妄想の可能性は捨てきれない。)

だが、相手は私の本棚の中身について一切検分せず、感想すら言わない。本棚を導入した時も、高さばかり気にしていた。(ちなみに、180cmだ。)

こんな状況なので、私は一切自分の思想に干渉されず、自由にのびのびと本を読み、隠し場所に腐心することなく生活している。

だが……実は一冊だけ、隠している本がある。どんな本かは、もちろん書くことはできない。隠し場所は、クローゼットの奥底である。 ふとした拍子に見つかることが絶対にない場所だ。

 万が一、この本が見つかりそうになったら、私はクローゼットを外に放り出すことも辞さない。身体を張って守りぬく所存である。

花粉症にはあの有名冒険小説。『文学効能辞典』~あなたの悩みに効く小説~

自分の中に、悩みのミルフィーユが存在することを最近発見した。

こんな感じである。

突発的な生活の悩み(身体の不調、仕事のミス)>恋愛・人間関係 > 将来への不安 >過去への葛藤 >etc……

身体が元気なときは恋愛で悩み、将来への興味が薄い時は過去を思い出してもやもや……

キリがないし、本当は悩むことが好きなのでは?  と思ってしまう。

いつも悩み疲れている自分に自己嫌悪……とまた一つ、悩みが増える。

普段働いている分、自由な時間まで悩みに費やしたくない。心豊かに過ごしたい。

そんな私のお守りがこの本。悩み別に、どの文学作品を読んだらいいかアドバイスしてくれる。

数ページめくったところから、あまりにも目次が豊富で驚く。

今、ぱっと本を開いて目に入ってきたものだけでもこれだ。

 

・救いようのないロマンチストのとき

・男性型インフルエンザのとき

・陶磁器を壊してしまったとき

 

一つ目は確かに……つける薬は文学しかないだろうが。(ちなみに、この本では『恋を除く少年』L・P・ハートレイを読むように強く薦めている)

私がよく読むのは以下の悩みの項だ。

 

・自分がまぬけに思えるとき

・自己評価が低いとき

・疲れているとき

 

ちなみに先週からの自分にぴったりなのは

 

・花粉症のとき

 

だろう。なんと、『海底二万里』(ジュール・ヴェルヌ)を読めとのことだ。確かに、海底にはいまいましい花粉も届かないだろう。

宇宙服へ変態する妻の身体。岸本佐知子編『変愛小説集』~僕らが天王星に着くころ~

文脈の通り、ここでいう「変態」は、変態性欲の略ではない。

岸本佐知子編『変愛小説集』の現代欧米作家編、日本作家編を私は吉祥寺の古本屋、バサラブックスで購入した。

明るい木目が印象的な棚が天井まで立ち並ぶ、小綺麗なお店だ。吉祥寺の公園側に行きたくなるたび私はここに寄る。井の頭公園を散歩して、ベンチでパンやドーナッツを食べ、バサラブックスの店前のお値打ち本が入った箱を覗いて……

 

さて、『変愛小説集』だが、『変愛かつ純愛』な短編小説を集めたというコンセプトの面白さに惹かれて購入した。そしたらまぁ面白いこと。目を皿のようにして読んだ。

現実と非現実が入り混じる世界観、果てしなく先の未来なのかこの世界に近しい異世界なのか、夢なのか……欧米小説編に納められた11編全ての作品を紹介したいが、気負ってしまうので気が向いたらにする。(日本作家編は未読)

その中で、『僕らが天王星に着くころ』(レイ・ヴクサヴィッチ)という小説について書きたい。

この小説はこんな一文で始まる。

――モリーに宇宙服が出はじめたのは春だった。

これだけでもう、引き込まれた。

この世界では、皮膚が宇宙服に変わっていくという病が流行している。足から徐々に銀色の宇宙服に包まれていき、身体の上のほうまで侵食し、最後、頭がヘルメットに包まれると重力を失い、宇宙へ飛び立っていく。

主人公の妻もこの病に罹る。少し遅れて、主人公もこの病に罹る。一緒に飛び立ちたいと願う主人公の願いも空しく、妻は先に宇宙へ吸い込まれていき、無線も届かない。

宇宙服が完成した人々が向かう惑星は、一定の時間枠内で異なるらしい。ある時に飛び立った者は天王星、ある時に飛び立った者は冥王星……

宇宙服が完成した主人公は宇宙空間を漂いながら、妻が向かったはずの天王星に着くことを願う。

 

あらすじを抜き出すと、つらく切ない物語のようだが、小物や会話がユーモアに溢れ、主人公は前向き。軽いテンポで話が進んでいく。

この小説を読みながら、恋人(実在するかしないかはさておき)のことを考えていた。

恋人の皮膚が宇宙服で覆われていく日々。自分の手の温度を感じてもらえる部分が減っていき、ヘルメットのガラス越しにしか目を見交わすことができない。

そんな時、私ならどうするだろう? この小説の主人公のように、無線を用意したり、とりすがって紐で縛って風船のように繋いでみたり、するのだろうか?

飛び立つまぎわ、人々は必ず一つ手近なものをひっつかんでいく。私なら、全ての気持ちを込めた何かを持たせることを思いつく。それか、早く自分の病が進むよう、できる限りのことをするかもしれない。

書いていて気が付いたのだが、歳を取ることと宇宙服に身体を侵食されていくことは似ている。

妻を見送った後、主人公は地球で周到な用意をし、天王星への旅に臨む。その装備は文学全集、懐中電灯、小型の消化器。

一刻も早く天王星に着くため、消火器を噴射して自身を加速させるラストシーンは、可笑しくもやっぱり切なくも、その明るさに胸を打たれた。

死ぬことと似ていても、完全な離別ではないのかもしれない。

おかしくなった世界、非現実的な現実を前に、ひたすら自分にできる限りの手を尽くす主人公に不思議と物悲しさはない。

ひたむきな夫の愛の『変愛』だった。

 春が来たら、私も銀色のハイヒールを履いて、井の頭公園を散歩したい。